老後資産の最大化は、本当に人生の最大化なのか

資産形成の話では、どうしても老後資金を最大化する方向に考えがちです。

できるだけ長く正社員として働く。できるだけ多く積み立てる。NISAやiDeCoを使い、60代以降の資産額を大きくする。これは数字の上では合理的です。

しかし、人生全体で見ると疑問が残ります。60歳を過ぎてから大きな資産があっても、そのお金を使って楽しめる体力、時間、好奇心、人間関係が同じように残っているとは限りません。

お金は将来へ送れる。しかし、若い時間と健康は将来まで保存できない。

米国では「貯めすぎ」「使えない」問題として語られる

この感覚は、日本だけの話ではありません。米国でも、老後資産を貯めたのに十分に使えない問題は、退職後の取り崩し、decumulation、retirement savings puzzle といった文脈で議論されています。

EBRIの退職資産取り崩しに関するIssue Briefでは、退職後かなり長い期間が経っても、多くの世帯が資産を相当程度残していることが示されています。退職者は、理論上は資産を取り崩して消費するはずですが、実際には資産を大きく減らさず、場合によっては増やしたまま高齢期を迎えることがあります。

MarketWatchも、Corebridge Financialの調査を紹介し、65歳で退職した人の中に、90歳時点で退職時より貯蓄が増えている人が多いことを取り上げています。背景には、資産が減ることへの心理的抵抗があります。

つまり、問題は「老後資金が足りない」だけではありません。もう一つの問題として、十分に貯めたのに、怖くて使えないことがあります。

Die With Zero 的な考え方

米国では、Bill Perkins の『Die With Zero』のように、死ぬときに多額の資産を残すことを、使えたはずの経験を残したままにすることだと捉える考え方もあります。

これは、無計画に浪費しようという話ではありません。老後資金を完全に無視する話でもありません。

重要なのは、純資産の最大化ではなく、人生の充足度を最大化することです。若い時期、中年期、高齢期では、同じ100万円でも買えるものが違います。

年齢

100万円で買いやすいもの

価値の特徴

30代

休職、転職余裕、旅行、学習、引っ越し

選択肢を広げやすい

40代

労働時間削減、家族時間、独立準備、健康維持

働き方を変えやすい

50代

セミリタイア準備、低負荷労働への移行

労働から降りる準備になる

60代

安心感、医療・介護予備費、趣味

守りの価値が大きい

75歳以降

生活安定、介護、相続、寄付

使い道が限定されやすい

同じ金額でも、若い時期ほど選択肢を増やす力が強い。高齢期ほど安心感や守りの意味が強くなります。

60歳以降の2億円は安心だが、限界効用は下がる

60歳以降に2億円あることは、もちろん安心です。医療、介護、長生き、インフレ、家族支援、相続、寄付などを考えれば、多いに越したことはないという見方もできます。

ただし、独身、子なし、相続意欲が低い人にとっては、老後に大きすぎる資産を残す意味は相対的に下がります。

生活費に対して十分すぎる資産がある場合、追加の1,000万円が増えても、人生の満足度はそれほど上がらないかもしれません。一方で、その1,000万円を40代で労働時間を減らすために使えたなら、得られる自由は大きかった可能性があります。

資産は、ただ増やすだけでは意味がありません。どの年齢で、何のために使えるかが重要です。

働き方の目的が変わる

老後資産の最大化を目的にすると、正社員フルタイムをできるだけ長く続けることが合理的に見えます。

しかし、人生全体の効用最大化を目的にすると、40代から50代で働き方を軽くすることも合理的になります。

従来型の発想はこうです。

  • 60歳・65歳まで働く
  • 老後資金を最大化する
  • 退職後に自由になる

一方で、脱労働に寄せるなら、発想は変わります。

  • 若いうちに一定の資産を作る
  • 40代・50代で労働の強制力を下げる
  • 60代以降は余りすぎない程度に備える

この場合、働き方の最適解は、高収入を最大化することではなく、自由度を最大化することに近づきます。

目標は完全FIREではなく、労働交渉力でいい

完全に働かないためには、大きな資産が必要です。年間生活費が300万円なら、取り崩し率を低く見ても、かなりの元本が必要になります。

しかし、生活費の一部だけを働いて稼げるなら、必要資産は大きく下がります。

たとえば、年間生活費300万円のうち、年200万円を低負荷の仕事で稼げるなら、資産から取り崩す必要は年100万円です。完全FIREよりも必要資産はかなり小さくなります。

つまり、目指すべきは0か100かではありません。

  • 嫌なら辞められる
  • 週4勤務を選べる
  • 数か月休める
  • 低負荷の仕事へ移れる
  • 収入が下がっても生活を壊さない

このような労働交渉力を持つことが、現実的な脱労働に近いです。

資産額は段階で考える

2億円という大きな数字を最終目標にすると、そこに到達するまで自由になれないように見えてしまいます。

しかし、実際にはもっと手前の段階でも、働き方を変える力は生まれます。

資産額

得られる自由

1,000万円

転職、休職、退職前後の心理的余裕

2,000万円

会社への依存度が下がる

3,000万円

数年単位で働き方を試せる

5,000万円

低負荷労働や週4勤務へ移りやすい

7,000万円〜1億円

セミリタイアが現実に近づく

2億円

かなり余裕。ただし年齢次第では余剰になりやすい

大事なのは、2億円に到達してから自由になるのでは遅いかもしれない、ということです。

3,000万円、5,000万円、7,000万円の時点で、すでに働き方を変える価値は出てきます。

フリーランスや週4勤務は、資産を使う方法でもある

フリーランスや週4勤務は、単なる働き方の変更ではありません。資産を使って、労働拘束を減らす方法でもあります。

正社員は、安定収入を得る代わりに、時間を月単位・年単位で会社に預けます。フリーランスや週4勤務は、収入の不安定さや社会保険の違いはありますが、案件、稼働日数、休む時期を選びやすくなります。

資産がある程度あれば、収入最大化ではなく、摩耗率を下げる働き方を選びやすくなります。

たとえば、年収を増やす代わりに責任や残業が大きく増えるなら、人生全体では損かもしれません。逆に、年収は少し下がっても、17時退社、リモート多め、人間関係が楽、学習時間が残るなら、効用は高い可能性があります。

ただし、老後資金を軽視してよいわけではない

ここで言いたいのは、老後資金はいらないという話ではありません。

米国で老後資産の取り崩しが議論される一方で、医療費、介護費、長寿リスクへの不安も大きく扱われます。日本でも、年金、医療保険、介護保険があるとはいえ、長生きや制度変更への備えは必要です。

だから、極端に今だけを優先するのも危険です。

必要なのは、老後資金を最大化し続けることではなく、必要額を決めることです。

  • 老後に最低限必要な生活費はいくらか
  • 年金でどれくらい賄えるか
  • 医療・介護・住居の予備費をどれくらい見るか
  • 相続や寄付をどれくらい望むか
  • そのうえで、今の自由に回してよいお金はいくらか

この順番で考えると、老後と現在を対立させずに済みます。

結論:資産は、60代の安心だけでなく40代・50代の自由にも使う

60歳以降に2億円あることは安心です。しかし、そのために30代、40代、50代の自由時間を削り続けるなら、本当に合理的かは分かりません。

米国でも、退職者が資産を十分に取り崩せず、貯めたまま高齢期を迎える問題は議論されています。お金は貯めるだけではなく、いつ、何に使うかが重要です。

脱労働の文脈では、資産形成の目的は老後資金の最大化だけではありません。会社にしがみつかなくてよい状態を作り、労働量を減らし、嫌なら辞められる選択肢を持つことです。

60代以降の大きすぎる資産より、40代・50代で労働の強制力を下げられる資産の方が、人生全体の効用を高める場合があります。